介護ブログ

父の施設入所の経過、心の動き。などなど

父の事が好きだった

ゆきな

今91歳の父の介護に向き合っています。

サービス付き高齢者住宅に入所してもらっていますが、

とにかくお金がかかる。

そして父も弱弱しくなっていく。

ずっと小さい頃の厳格で厳しい父が私の中にありました。

怖いという気持ちしかなかったです。

だからこの介護に向き合うときも、子供だからやらなきゃならない。

子供だから責任を負わなけらばならない。

と。「役割」として受け止めていました。

当然ながら父との向き合い方も苦しいものでした。


最近セルフセラピーカードに出会い、毎日一枚のカードのテーマをもらって

考えるようになりました。

そうさっきの「役割」は手放そうと思いました。


娘として父に向き合っていこうと思いました。

父はレビー小体型認知症と診断されていて

最近症状が悪化してきました。

私に父は今までは意地悪な性格だった。憎たらしい考えだった。

と話してきます。

昔の事を思い出して回想しているみたいなんです。

だから父も苦しくなって、私に電話したいけど、私にも家庭があるし、

迷惑はかけられないと、電話はかけてきません。

だから施設に面会に行って、安心をプレゼントしたいと今は思ってます。


週1回が、月1回になっていました。

これからは最低でも週1回は行きたいと思ってます。

介護しながらも

ゆきな

過去は、今の私につながっている

〜無理をしない、自分らしく生きる〜

昔を振り返ることは、過去にしがみつくことだと思っていた。

過去を思い出すのは、後悔したり、嫌なことを思い出したりすること。そんなネガティブなイメージがあった。

でも、最近、昔のことを話しているうちに気づいた。

過去の経験は、今の私をつくっている。

何気なくやっていることにも、ちゃんと理由がある。今の自分の考え方や行動は、これまでの人生の中で経験してきたことから生まれているのだ。

お腹を空かせていた子ども時代

私は、子どもの頃、貧しい生活を送っていた。

幼稚園にも通えず、お腹を空かせていたこともあった。

そんな私に、中学校の先生がしてくれたことがある。

土曜日の放課後、誰もいない職員室で、カップ焼きそばを一緒に食べさせてくれたのだ。それも毎週。

先生の名前は、もう忘れてしまった。

でも、カップ焼きそばを食べるたびに、今でも先生を思い出す。

私にとっては、命を救ってもらったと思えるほど大切な思い出だ。

名前を忘れても、受け取った優しさは忘れない。

人の人生を支えるのは、大きな出来事ばかりではないのかもしれない。誰かが差し伸べてくれた、ささやかな優しさが、何十年たっても心の中に残っている。

「頑張りなさい」という言葉

26歳のとき、私は精神の病気になった。

入院生活は八か月に及んだ。

当時の私は、人を信じることも、誰かに頼ることも知らなかった。自分の言動を笑われるのではないかと疑い、主治医にも心を開けず、黙秘を続けていた。

退院のための外泊をしても、夫の実家に戻ると体調を崩してしまう。

そんな私に、亡くなった母が手紙をくれた。

手紙の内容はほとんど覚えていない。ただ、最後に書かれていた「頑張りなさい!」という言葉だけは、今でも覚えている。

私はその言葉をきっかけに、自分が頑張る方向を間違えていたのかもしれないと気づいた。

そして、自分のアパートを掃除し、娘と夫に自分のアパートで会うようにした。

それから状態が良くなり、退院することができた。

今思えば、ただ頑張ることだけが大切なのではなかったのだと思う。

自分に合わない環境から離れること。自分が安心できる場所を見つけること。そうしたことも、自分を守るために必要だった。

母の言葉がなければ、どうなっていたかわからない。私は今でも、母を恩人のように思っている。

人を信じ、心を開くこと

病気になったことで、私は大切なことを学んだ。

悩みを誰かに打ち明けること。人を信じて心を開くこと。そして、誰かに頼ること。

その大切さを実感できたのは、GA(ギャンブラーズ・アノニマス)との出会いがあったからだ。

GAのミーティングでは、自分の経験や気持ちを話し、仲間の話を聞く。

正直な話をしないで、格好をつけて話したときほど、ミーティングのあとにモヤモヤする。

反対に、格好悪いところも、情けないところも、正直に話せたときは気持ちが楽になる。

正直すぎて、何度もみんなに笑われたこともある。

「私、ダメンズ製造機なんです」

そう話したときも、みんなに笑われた。

過去に結婚した三人の夫は、みんな鬱病になり、働かなくなった。今の彼も鬱病で働けない。

私は、そういう人を選んでしまうのかもしれない。

でも、今の彼は、私にとってとても大切な存在だ。

辛い過去を持ちながらも、頑張って生きてきた人。人の痛みを知っているからこそ、人に優しくできる人。そして、穏やかな人。

私は、そんな彼が好きなのだ。

GAのミーティングは、笑いあり、涙ありだった。

一人で抱えていたことを話せる。自分の弱さを隠さなくてもいい。そんな場所が私には必要だった。

かつては人を信じられなかった私が、今では人と心を通わせることの大切さを知っている。

そして、自分が救われた場所を、今度は仲間のためにつくる側にもなった。

エトワール小杉というグループを立ち上げ、多くの仲間と過ごした時間は、私にとって大切な経験になった。

ようやく始まった、二人だけの暮らし

今の彼とは、長い付き合いになる。

以前の結婚生活では、私には娘と息子がいた。子どもたちは彼になつかず、彼も大きなストレスを抱えていた。下血するほどつらい思いをしていて、私は離婚を考えた。

それでも、別れた初日から彼との付き合いは続いていた。

生活保護に頼っていた時期も、私はアパートを用意し、引っ越しも一緒にした。何度も別れようと思ったことがある。

そして、ようやく今、二人だけの生活が始まった。

前とは全然違う。

私たちのスタンスは、「やれる人が、やればいい」。

家事も、仕事も、無理をしない。

どちらかが全部を背負うのではなく、そのときにできる人がやる。できないときは、無理をしなくていい。

お互いに正直に話せる関係にもなった。

相手を大切にすることと、自分を犠牲にすることは違う。

一緒に暮らしていても、それぞれの時間を大切にする。相手の部屋にお茶を持っていくこともあれば、自分は自分の部屋で好きなことを楽しむ。

ようやく手に入れた二人だけの暮らしを、私は今、楽しんでいる。

自分の暮らしを、自分で整える

引っ越しをして、私はたくさんの物を手放した。

以前は狭い部屋に物があふれていたけれど、今は部屋の七割ほどに余裕がある。

空間ができると、不思議なことに、新しいものや変化を受け入れる余裕まで生まれてくる。

玄関には、一人一足ずつ、必要な靴だけを出している。以前は玄関がごちゃごちゃしていて、気持ちまで落ち着かなかった。

テーブルの上も、使ったら片づけて、布巾で拭く。

花を飾り、毎日水を替える。

そんな小さなことが、暮らしを気持ちよくしてくれる。

私は二十代の頃、生け花を習っていた。草月流と小原流の両方を学び、料理教室にも通っていた。

先生が少し手を加えるだけで、花が見違えるほど美しくなる。そのことに感動して、自分もあんなふうに生けられるようになりたいと思った。

料理も好きだ。

おいしいものを食べるのが好きだから、作ることも苦にならない。料理は味だけでなく、道具の扱い方や段取りも大切だと思っている。

食べ終わったらすぐに洗い物をする。寝る前には食器を片づけ、水切りかごも乾かしておく。

そうすれば、次の日も気持ちよく料理ができる。

暮らしを整えることは、単に部屋をきれいにすることではない。自分が心地よく過ごせる環境を、自分でつくることなのだと思う。

私は、幸せなのかもしれない

もちろん、不満がないわけではない。

仕事は疲れるし、介護にはお金がかかる。血糖値の管理も気がかりだ。

父のことでは、長い間、いろいろな責任を背負ってきた。これからの生活費や老後のお金についても考えなければならない。

それでも私は、今の自分には幸せなことがたくさんあると思う。

息子がいる。孫がいる。大切な彼がいる。仕事もある。

そして、日々の暮らしを楽しむことができる。

花を眺める。好きな本を読む。音楽を聴く。おいしいご飯を作って食べる。お風呂に入って、ほっとする。

そんな普通の生活を送れることが、ありがたい。

子どもの頃は、お腹が空いていた。

二十代では病気になり、人を信じることができなかった。

結婚生活でも、何度も悩み、別れを考えた。

決して平坦な人生ではなかった。

それでも、私を気にかけてくれた先生がいた。母の言葉があった。GAの仲間がいた。そして、今、一緒に暮らす大切な人がいる。

私は、人生は最後にはトントンになるのかもしれないと思うことがある。

もちろん、すべての苦労が帳消しになるわけではない。それでも、苦しかったことだけが人生のすべてではない。

振り返ってみれば、支えてくれた人たちがいて、そこから学んだことがあって、今の私がいる。

過去を振り返るということ

昔の自分に会えるなら、私は何をしてあげたいだろう。

そう聞かれたら、私はきっと、お菓子をいっぱいあげると思う。

お腹を空かせていた子どもの私に、好きなだけ食べさせてあげたい。

あの頃の私には、そうしてあげたかった。

今の私には、昔の自分を責める気持ちはない。

うまくできなかったことも、人を信じられなかったことも、何度も同じような恋愛をしたことも、すべてが今につながっている。

過去を振り返ることは、過去に戻ることではない。

あのときの自分は、あのときなりに一生懸命だったのだと理解すること。そして、今の自分が何を大切にしたいのかを知ること。

私はもう、無理をして頑張り続けなくてもいい。

人に頼ってもいい。できないことがあってもいい。自分のために選択してもいい。

父のために何かをしないと決めることも、自分の時間を大切にすることも、私自身が選んでいい。

これからは、誰かのためだけに生きるのではなく、自分の人生も楽しんでいきたい。

一日の終わりに、「今日は良かったな」と思える日を重ねていきたい。

過去にしがみつくのではなく、過去を知ることで、今の自分をもっと好きになる。

そして、これからの人生を、自分らしく生きていく。

それが、今の私の願いだ。

特養からサ高住に転居

ゆきな

はじめてブログを書きます。

2024年10月に90歳の父を特養に入所してもらいました。

きっかけは一人暮らししていた自宅から裸足で近くのコンビニに行って、保護された事

で、近所の保護してくれた人が担当の地域包括センターに連絡をしてくれて、

私の会社に電話があったのがきっかけです。

会社を早退してすぐに神奈川県から実家の仙台に行きました。


父曰く「家の前に大勢の人がきて、襲われると思ったから、裏玄関から裸足で逃げた」

と。

認知症がかなり進んでいて、家に行った当初はぼーっとしていた感じでした。

部屋もちらかり、お風呂や洗濯もしていない様子。


何年も前から一人暮らしは無理だからと説得していましたが、

とうとう今回本人もあきらめたのか、施設に入所することを承諾してくれました。


次の日病院に行き、要支援1だったものを、介護認定再判定をしてもらうために行きました。

認知症の検査やもろもろの検査をして、1か月後に要介護2の判定を頂きました。


かけつけて2日後に特養のショートステイに入らせてもらいました。

その後ショートロング、長期入所に移行して看取りまでお願いしようと思いました。


ところが、介護スタッフさんと照明を消す消さないで、もめて父も電気の事が詳しいことを

ひけらかして、そんなこともわからないのか的な事を言ったことで、介護スタッフさんとも気まずくなりました。

他にも財布が持てないことが不満だったらしくて、ここは「地獄」だ「刑務所」だといいだして、すぐにでも出たいと訪問する度にいうので、残りの人生つらい気持ちで暮らすのは、可哀そうになり、私の住んでいる近くのサ高住でいいならと話しをしました。

本人はどうして特養を出たかったのか、それを承諾しました。


特養はわずか2か月で転居することになりました。

父の年金は15万/月。

特養ならそれでまかなえてました。


サ高住ともなればそうはいきません。

かなりの予算オーバーです。


でも私の都合を考えれば、特養でしたが、

父の事を最優先に考えた時、できるだけの事はしてあげたいと思ったのです。

とはいえ綺麗事ばかりは言えません。

最初年金の入る通帳、カードは私が管理することになっていましたが、

最近になってカードは自分は持ってなきゃならないと言い出して、

反論を言ったところで通じないのはわかっていたので、

好きなようにさせようと返却しました。


もちろんかかった費用はすべて父にはらってもらいます。

わずかな預金がなくなったら年金を超える分は私が負担することになりますが、

あるうちは請求します。


結局今回は前の施設の日割り分、今の施設の日割り分、他高熱費や、訪問医療などなど、

306,000円/月でした。


さぁこれからどうなることやら。

今は毎週1回の訪問で、外食、買い物をしていますが、

認知症の父なので、正直つかれます。


私も57歳で自分の老後を考えなきゃならないのに、やれやれです。


読んでくれてありがとうございます。